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昇華させる

昇華という言葉があります。

社会的に実現不可能な目標・葛藤や満たす事が出来ない欲求から、別のより高度で社会に認められる目標に目を向け、その実現によって自己実現を図ろうとすること。

という意味だそうです。
心理学用語で、「防衛機制」の一つです。

防衛機制については、このブログで検索していただければ、詳しく述べています。

今現在、妻が精神的な病気を患っていて、このブログを定期的に書けないような状態にありますが、更新しなくなっても毎日100名近い方々が私のブログを覗いてくださっているということは、私にとっての一つの救いとなっています。

今井美樹の曲で、プライドという曲がありますが、「どんな時もほほえみを絶やさずに・・・」という詩がうかんできました。
苦しみの中にも、小さな喜びを見出すことができます。

いまの苦しさを日記に書き続けていまして、いつかこのブログで述べたいと思っています。
「霊的成長」の過程で、通り抜けなくてはならない私の宿命だと思っています。

今日がいい日でありますように

思いもよらない出来事が起こり、普段の生活ができなくなってしまいました。
平穏な日々ではないけれど、何とか生活している。
辛いことは多いけれど、それでも生きている。

夜寝るときは、「明日がいい日でありますように」と祈って床につきます。
そして、朝は、「今日がいい日でありますように」と言いながら起きます。

 普通の日々に戻れるのはいつになるのかわかりませんが、今は気長にじっと過ごしていくしかありません。
 
 久しぶりにブログに書き込みますが、以前のように毎日更新する余裕がありません。

 ただ、そう自分に言い聞かせることで、少し顔の表情が和らいでいるように感じました。

日記風に現在の自分の気持ちを書き綴っていますが、いつの日かブログにアップできたらと思っています。

 まだ、更新は不定期のままです。

しばらくの間更新を休みます

突然ですが一身上の都合により、このブログを書き続けることができなくなりました。
私自身は揺らいでいないつもりだったのですが、私の周辺に起こる事件によって精神的なゆとりがなくなったからです。
「霊的成長」
いままでこつこつと積み上げて来ていたつもりだったのですが、自分の未熟さを痛感いたしました。
まだまだ修行が足りません。
落ち着いて、また再開できれば幸いです。

いま在る自分に感謝しています


511,1000以上の閲覧
記事番号 2717
7年半あまり毎日更新していました。
拍手の数 20000を超えました。

私の宝物です。

まだ仏縁が薄い

≪人を想う≫

「歎異抄」には親鸞聖人の体得なされた「他力信心の極致」が記され、非常に切れるカミソリのようなものだと言われているのです。
余りに切れる為に、ケガをする危険がありますから、蓮如上人は「仏縁浅い人には読ませてはならない」と言われてます。

まだ仏縁が薄い

言葉の解釈で、180度正反対のことを言っている部分もあれば、初心者には分かりにくい微妙な間違いや、一応そうとも言えるけれども、非常に誤解を与える表現などがあり、
大変なことになってしまう危険があるという意味だそうです。

体系的にきちんと学ばないと、理解できないし間違いやすい本だというのは、なるほど「本物の匂い」がします。

仏縁がありきちんと学ぶ機会があれば、その時にまた記事を書こうと思いますが、とりあえずこの程度にしておきます。

テレビで西本願寺の様子を紹介した番組を見ましたが、戦国時代、時の権力者とも繋がり庶民宗教として発展した様子を知れば、逆に興味が失せました。

教えの素晴らしさと教団の強大さが、私好みではないからです。
単なる好き嫌い。
他の宗派に対する排他性も好きではありません。
まだ、無味無臭の廬舎那仏、奈良の東大寺の方が好みです。

弥陀の救いには一切の差別はない。
老若男女、善悪美醜、貴賎貧富の区別なく、何の隔てもなく救う弥陀の本願だが、「ただ信心を要とす」
という重要な言葉があります。

皆を救うというものではなく、実は私一人の救いを確証するための御言葉であり、どうやら信心が必要であるというような単純な解釈ではなくて・・・。

いろいろな解説本を読むと、少しニュアンスが違うような感じで、訳がわからなくなりました。
興味を持たれた方は是非、この部分だけでも調べて見られることをお勧めします。

まだ仏縁が薄いということなのか、私が未熟と言うことなのか。
どんな信仰だって、まず信じることから始まりますので、よく解らないということは疑っているということですからね。

そういえば、キリスト教も「キリストの復活」を信じることができるかどうかが、学問と信仰の違いだそうです。

信の一念

≪人を想う≫

思いつくままに親鸞について述べているつもりです。
 親鸞聖人教えは、すべて『教行信証』に書かれています。
正式名称を『顕浄土真実教行証文類』といい、浄土真宗の「根本聖典」とか「御本典」といわれます。
『歎異抄』は親鸞聖人がじかに書かれたものではありません。
ある程度理解したものでないと読み誤るといわれていまして、数多くの解説本が出ています。

信の一念

ちょっと興味を引く解説がありました。

「すべての人を必ず助ける
絶対の幸福に」
というのが「本願」ですが、これは長い時間をかけてふり返ったときに、そうであったのか、と自覚されるものではないそうです。

≪私は、あの時かなという感覚は現在ありますが、その時は、わかりませんでした。
ただ楽になった感覚はありました。≫

本願を疑う心は、長い時間をかけてではなく、一念ではれますから「信の一念」といわれます。 『一念』とは、あっという間もない短い時間です。
信じて疑わなくなった時ということらしいのですが・・・。

この言葉だけでも、いろいろな解説があります。

「一念」とは「信の一念」をあらわすもので、信心のはじまりの時を意味する。
そして信心のはじまりの時が往生成仏の決定する時であること、つまり受法と得益が同時であることは、往生成仏を決定するものは信心のほかにはないことを示す。

なんか難しいですね。

一瞬の宗教体験で、「往生」したと感じる瞬間であり、それを体感することで自分が誇らしく思えてしまいます。
無我どころか、智慧を得たと思い、大我(自力)になってしまう危険性があるそうです。

奇跡を体験すれば、それ以後の世界とは別の世界に入ります。
宗教家はそういう経験をされた方なのでしょう。

私達庶民は、こんな奇跡を味わうことってまずないですね。
いや、好きな人と出会ったときにビビビとなって一瞬で恋に落ちるようなものだと言えば、解りやすいのかもしれません。

「そうではなくて、本願を聞いて疑い無く聞いていることです」と言われる方もいます。

いずれにせよ、
「信心を要とす」これがないと助からないと言われています

仏教は法鏡なり

 ≪人を想う≫

思いつくままに親鸞について述べているつもりです。
 
仏教は法鏡なり

「他力」というのは「他人の力」ではなく「仏の力」です。
だから「他力本願」というのは、思いどおりにならない人生に対してじたばたせず、「オレが、オレが」という自己中心的な考えを捨てて「自分の心の中にいる仏のはたらき」にまかせて生きることだと理解しています。

以前、私は「内在神」と言っていました。
神でも仏でもどちらでもよいと、いい加減に思っています。

仏教を説かれたお釈迦様は、お亡くなりになるときに、「仏教は法鏡なり」と仰っています。
「法」とは「真実」「本当の」ということですから、「法鏡」とは、「本当の私の姿を見せてくれる鏡」ということです。
その法の鏡は、自分の心の中にある。

自己の真実の姿を教えられても、「それは私のことではない。自分は違う」と思ったり「あの人に比べれば、私はまだましなほうだ」とついつい思ってしまいます。

ところが、だんだんと仏教を聞いていきますと、鏡に近づいていくように、自分の本当の姿が次第に明らかに知らされてきます。

鏡に近づくほど、しわやら、あざやら、醜いものが見えてくるように、仏教を聞けば聞くほど、自分の醜い姿が知らされてきます。

鏡の前に座っていても、目をつむったり、そっぽを向いていては、鏡を見ていることにならないように、何十年も仏教を聞いていても、本当の自分の姿を知らなければ、仏教を聞いたことにはなりません。

 いままで何年も、このブログで述べてきましたが、いまだに本当の自分の姿を見てなかったのではないかと思ってしまいます。

神社に飾られている鏡を「神鏡」といいますが、その鏡も、自分の心を写す鏡だといわれます。
 神棚や仏壇に向かって拝むのは、自分の心を見つめているということになると思っていました。

そして、今、「法鏡」に自分のいろいろな醜い心が写っています。
現象として身の回りに問題が生じ、その対処方法を問われています。

これまでの自信や経験や学んできたはずの知識が全く役に立たず、無力感にさいなまれています。

「まだ、私の人生は私を試そうとしているのか。」
「まだ、苦しまないと人生はおくれないのか。」

「法鏡」を見ながらつぶやいています。

正しい信心

≪人を想う≫

自分は「善を成したか」という問いに、成したとは言えませんが成そうと努力しているとは言えます。だから善人であるとうぬぼれると間違いだそうです。
生きている限りいろいろな我欲に乱されます。
愚人であり悪人であると自覚することで他力を得ることができるというのが、他力本願という意味だと思っています。
 
正しい信心

ところで、私は浄土真宗の信者ではありません。
先祖代々、檀家であったというだけで、単なる葬式仏教だと思っていました。

 これまでも新興宗教についての批判的記事を多く書いてきましたし、特に教団という組織には批判的です。

 当たり前のように門徒会費を納めて、頼んでもいないのに毎年お盆には自宅まで来られて、読経されています。
 その法事の時、「正信偈」を和讃させられていました。
よく意味も分からず、ただ和尚さんのまねをして、読むだけ。
葬式の時に世話にならなければならないので仕方なくというのが正直な気持ちでした。

この「正信偈」というのは、親鸞の著「教行信証」の行巻にある正信念仏偈のことだそうです。
弥陀・釈迦・七祖の教えを述べたもので、真宗では和讚(わさん)とともに読誦(どくじゅ)します。
今回、親鸞について調べていて初めて知りました。

実は、大変にありがたいことだったのだと反省しました。

この「正信」とは正しい信心のことです。
信心とは心で何かを信じることですが、神や仏を信じるだけが信心ではありません。
心で何かを支えとし、頼りにしているのは、皆、信心です。

「何も信じていない」という人も、そんな自分の信念を支えにしているでしょう。

人は何かを信じなければ生きてはいけません。
生きるということはイコール信じることです。

私たちは信じていたものに裏切られた時、悲しみ苦しみます。
本当の幸せになりたければ、決して裏切られない正しい信心を持ちなさいよということです。

これまで何度、信じていたものに裏切られたのだろう。
これは覚えていて、死ぬまで忘れることはありません。

そして、自分は何度人を裏切ったのだろう。
これは身に覚えがありませんが、ひょっとしたら・・・気が付かずに誰かを傷つけていたかもしれませんね。
私も大悪人です。

他力とは如来の本願

≪人を想う≫

私の大好きな作家、司馬遼太郎は次のように述べています。

他力とは如来の本願

「死んだらどうなるかが、わかりませんでした。人に聞いてもよくわかりません。
仕方がないので本屋に行きまして、親鸞聖人の話を弟子がまとめた『歎異抄』を買いました。
非常にわかりやすい文章で、読んでみると真実のにおいがするのですね。
人の話でも本を読んでも、空気が漏れているような感じがして、何かうそだなと思うことがあります。『歎異抄』にはそれがありませんでした。
(中略)
兵隊となってからは肌見離さず持っていて、暇さえあれば読んでいました。
《司馬遼太郎『司馬遼太郎全講演第1巻』》」


この「真実のにおいがする」というのが一番いいですね。
大好きで信頼できる人が信じているから、私も信用します。
これが「信心」です。

親鸞は法然上人に29歳の時出合って、「往生」したそうです。
法然上人が言っていることだから間違いはないと思われました。
『歎異鈔』には「法然上人になら、だまされて地獄に堕ちても後悔しない」とおっしゃっています。

「なぜ人は生きるのか」その答えを見つけて、生まれ変わったそうです。
それが「他力本願」という言葉です。

他力とは如来の本願力なり(教行信証)

「他力」とは他人の力ではありません。阿弥陀如来の本願力のみを他力といいます。
「本願」とは約束とか宣言するという意味です。

阿弥陀仏は、すべての人は極悪人だと見抜かれた上で、そういうすべての人と約束するぞとおっしゃっています。
私たちすべては悪人です。
極悪人をあわれに思われてお約束されているのが阿弥陀仏の本願です。

私たちの苦悩の根元である、後生暗い心のことを「無明長夜の闇」と言います。
何のために生まれてきたのか、生きているのか、なぜ苦しくとも生きねばならないのか分からない。死に直面すると真っ暗な心です。

生きている今、この後生暗い心をぶち破り、絶対的な幸福を感じる力で満たしますという約束が、弥陀の本願力(他力)といいます。

 なお、自然の恵みは他力ではありません。

一般的には、自分の力以外をすべて他力と思い、太陽の働きや雨や風や空気、その他自然の働きもすべて他力と思われるかもしれませんが違います。
自然現象を他力とすると干ばつや自然災害も他力になります。