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ヘーゲルの倫理より

 ≪素敵な言葉≫

実は、昨日から哲学的な記事を書いてみようと思いまして、わけのわからないような文章になりました。
ちょっとヘーゲルに関する書物を立ち読みしたもので・・・。

ヘーゲルの倫理より

今から200年ほど前のいかにも古臭い哲学なのですが、その中にもいくつか私の興味を引く言葉があり、つの中の都合の良い部分だけ取り出して、自分の考えのようなふりをして、この記事として書いています。
まずそれをお断りしておきます。

私たちは道徳と倫理をほとんど同じようなものとして理解していますが、ヘーゲルは明確に区別しています。
道徳が普遍的な正しさを目指す意志。
倫理は普遍的な正しさが具現化したもの。
その意味で倫理は、「実質化された自由の理念」を指している。

つまり「自由が具体的な社会制度の形を取って現実のものになる」ということで、ヘーゲルによると、その骨格をなすのが、掟(=ルール、法律)と機構(=家族、市民社会、国家)だそうです。

私が興味を感じたのは、この「家族」の部分でした。

「家族のひとりひとりが家族の掟に従い、自分の役目を果たすことによって、自由は家族のうちで初めて実質的な形を取る。」

家族は愛という一体性によって規定され、個人は、一個の人格としてではなく、家族の成員として存在します。
結婚する2人の同意によって家族が構成され、ひとつの永続的な人格となり、持続的な資産を必要とします。

「夫や妻の収入は個人のものではなく、家族全体の共有となる。
これによって個人の欲望は、共同財産への配慮へと変わる。
つまり個人は家族のうちで素朴な他者配慮の感覚を身につける。」

・・・なるほどな、家族とは一つの人格であり、エゴではなく「他者配慮」の感覚を身につけるというのは、夫婦の本質なのかもしれないと思いました。

長年連れ添うと、「つがい」のような存在になり、子供も本質的な要素です。
子供は両親の愛の対象となり、家族の資産で養育される権利をもちますが、ただし親は子供に、「家族に対する配慮」以上に奉仕することを要求する権利をもちません。

なぜなら子供は家族のモノではなく、そもそも自由な存在だから。

→ 続く

いま在る自分に感謝しています

考えはどうして作られる

≪素敵な言葉≫

自分を信用できるかできないか、存在を認めることができるかできないか。
でもどんな自分であっても、自分が存在しているという事実は変えられませんから、どんなダメな自分であっても、しかたないと優しく見守る。
自尊感情といいますかね。
今日は、哲学問答です?

考えはどうして作られる

「ダメな自分」を認めて、ダメではないように少しでも努力すればいいと思うのですが、最初から「どうせダメだから・・・」と何もせずに自分を痛めつけるだけ。

この感情ってどこから来るのかと、ずっと心理学を勉強してきました。
自分とは違う考え方をする人を見て、「へぇー、こんな人もいるんだ。どうしてこんな考え方をするんだろう」と理解できませんでした。

成育歴であったり環境であったり、元々の性格であったり原因はいろいろと考えられたのですが、どうもそれだけではないような気がして、スピリチュアルの勉強もしました。
社会的な事件も心理学の視点で考察したり、それでもよくわからないというのが現状です。

哲学の本もかなり読みましたね。
「自分とは何か」、ヘーゲルやカント、難しくてよくわかりませんでした。
そして、その中から自分のアンテナに引っかかる部分、つまり自分が納得できる都合のいい部分だけを取り出して、自分の考えとするようなところがあり、いったい自分の考えとは、何が本物でなにが借りてきたものなのか、分からなくなってしまうという経験もしました。

自分の意見を言っているようで、実はあちこちからの寄せ集めの考え。

それを自覚しだすと、なにも書けなくなってしまいました。
自分独自の、独創的でだれも考えたことがないような考えで、ブログを書くことができれば面白いのですが、それだけの頭がない。

ヘーゲルの考え方で一部を紹介。

動物的欲望と人間的欲望の違い。
欲望は外的対象へと向かう。
例えば食欲は、その対象を食らい尽くす。それによって対象は消滅する。
しかしそれと同時に、欲望も消滅する。
動物的欲望は、「対象を否定することによって自己を否定する」ということの繰り返しである。
これに対して、人間的欲望は、持続する欲望である。
「自分が相手から認められることを認める」という二重の構造を持つ。
「愛」とか「自尊心」等がこの典型であり他者からの承認を必要とする。

これを自分なりに解釈すると、人間は「動物」なのか「人間」なのか。
どう違うの? となります。

いま在る自分に感謝しています

自分を信用できない

 ≪素敵な言葉≫

妻の知人の奥さんの話に戻ります。
その方の息子さんは、もうすぐ40歳。
八月に「リンパ腫」という血液のガンにかかり、抗がん治療を受けているとのことで、親としては心配でたまらないという話でした。

自分を信用できない

その子供さん。
結構波瀾万丈の人生を送っていまして、高校を出て料理職人の道を目指したのですが、腰を悪くして挫折。仕事を転々として、運送の仕事で頑張っていました。

その頃結婚して子供を二人授かりましたが離婚、養育費を払いながら仕事を続け、収入もよかったのですが、会社とトラブルを起こし離職、今の仕事は知りませんが、アルバイトが何かで生計を立てているのでしょう。
現在は独身ですが、同棲している彼女はいるということで、とりあえず支えてくれる存在がいるというだけでも親としては救われているということでした。

ここからが本論なのですが、その息子のことが心配で、ある「おがみやさん」に聞きに行くと、「ガンではない、ただのできものだ」と言われ、「どくだみの葉を塗ると治る」と言われたそうです。

息子に言うとバカにされるので言えないけれど・・・。

その息子さんは現在、抗がん剤による治療を受けていて、「見ると辛いから、お見舞いに行けない。」
ちょっと、意味が分かりませんが・・・。

別の「おがみやさん」にも聞きに行き、「ガンではない、大丈夫」と言われたのですが、奥さんは「自分の子供はもうすぐ死ぬ」と信じているようで、また別の「おがみやさん」にも聞きに行く予定だそうです。

聞いてどうするの・・・。

大学病院の治療も信用できず、「おがみやさん」の話も信用できず、あちこちとさまよい続けているような感じてす。

親の気持ちとしては、わかるようなわからないような・・・。

自分が怖いから「息子の顔を見たくない」、つまり息子の気持ちを理解できない親なのかな、なんて思ってしまいます。
自分を信用できないから、いろいろな「おがみやさん」に聞いて回るのですが、それも信用できない。
だって、その話を信用している自分が信用できないのですから。

恐怖や不安って、信用という拠り所がないから起こるのでしょうね。
そんなことを考えさせられました。

いま在る自分に感謝しています

守り続ける仕事

 ≪素敵な言葉≫

久しぶりに怪しげな話が続きます。
内容はバラバラですが。

守り続ける仕事

「おがみやさん」に多いのは、密教系のお寺で修業された方たち。
自分で宗教法人を設立して布教を始められた方々。
これらの方々は立派な人格者が多く、いい顔つきの方が多いのですが・・・。

これが仕事になったとたんに、生活がかかわってくるのでお金が必要になりますし詩いろいろな信者さんの相談ごとに憑いてくる「カルマ」、因縁を自分が浴びることになってしまい、だんだんと人相が悪くなっていきます。

そのためにも強い志と日々の修業が必要となってきますが、なかなかそれが難しく保つのが難しくなっていきます。
修業するとパワーが強くなり、それが必然的に煩悩を引き付けるのです。
人間は、本質的に逃れることはできません。

そこで、きちっとしたマニュアルが必要となり儀式が必要となります。
その体系が「真言密教」であり「天台密教」です。

浄土真宗のように檀家制度があり儀式だけを行うお寺では、お坊さんは収入も安定していますから、まじめにお経だけを唱えていれば生活ができます。

守り続けることが仕事です。
だから「ご住職」といいます。
そのお寺に住み続ける仕事という意味らしいです。

そういうお坊さんは、修業する必要もないから、仕事ができない公務員のような顔をしています。ちょっと叱られますかね。
修業をされているお坊さんもいますし、まじめに働いておられる公務員の方々から。
すみません。
経験上、どうしょうもない公務員と付き合ってきたものですから。

この「ご住職」という仕事は、霊線を守るためにとても大切な仕事でして葬式という儀式もそのためにあると思っています。
しかし、商売に熱心な「ご住職」は、下手に修業して間違いを起こしてしまう。

最近は、家族葬が多くなり簡略化されていますが、葬式という商売の部分は巣竹テイクでしょうし、「戒名」という見栄も必要なくなっていくでしょうね。

時代の流れで「うまみが少なくなる仕事」ですね。

いま在る自分に感謝しています

女の付き合いって難しい

 ≪素敵な言葉≫

昨日のブログ、変な感じ。いったい私はどうしたのでしょう。
描きだしたら勝手に話が進んで、何の脈略もない文章が流れ出してきたという感じです。
誰かが乗り移ってきたのか。

最近のブログ、何も考えずに書き始める癖があり、途中最後と話がどんどんと変わり、そのまま読み返すこともなく、誤字脱字もそのままアップという日が続いています。
これだけストレートに吐き出したら、気分はいいですね。

女の付き合いって難しい

妻の知り合いの奥さん。
体のどこかが悪いと言っては、病院ではなく、そのへん近所の「おがみやさん」に行って祈祷をしてもらったら治ったとか、そんな話ばかりするような人で、「妻は聞きたくはないのだけれど」と愚痴を言っていました。
その人の話によると、「おがみやさん」によっては得意不得意の分野があるらしく、症状によって使い分けているとか。
笑ってしまいました。

宗教家なのか霊能者なのか、普通の家なのですが、そこで「お悩み相談」みたいなことをする怪しげな人たちがいます。
除霊とか因縁とか、普通の人は縁がない場所ですが、その手のモノを信じている人は、あちこちに聞きまわっているという「業界」のようで・・・。

あるところの「おがみやさん」、言うことを聞かずに勝手なことばかりすると叱られて、あそこは信用できないといっていかなくなったとか・・・。
それまでは、あそこの先生は良く当たるとか言っていたのに・・・。

もちろん普通の医者にもかかるのですが、その医者に対しても症状をしつこく尋ねたり、薬だけほしいとか、身勝手なことを言って先生に嫌われ行きづらくなったとか。
医者も信用していないのでしょう。

ある意味凄いなと思います。
腰痛でもなんでもすぐ直るとか、しかし、その「おがみやさん」に通っているということは良くなっていないのか。
どこまで信用しているのか、していないのか。
勝手なものです。

費用は安いから、とか言っていますが、変な仏像が置いてあったとか、すべて妻からの受けうりの話ですからどこまで本当かはわかりませんが、妻はできれば付き合いたくないといっています。

性格もすごく、職場である人をいじめているとか、人から意地悪されたことをいつまでも根に持っていて、その人の悪口ばかり言っているとか聞きたくないので、すぐ別の話題を話すのだけれど、こちらの都合は考えず、グイグイという感じ。

人としてはやさしい人だけれど・・・。

そんなにいやなら付き合わなければよいのにと思うのですが、女の付き合いって難しいもので、聞かされる方もうんざりしてしまいますが・・・。
けつこう面白いですね。

いま在る自分に感謝しています

ウソかホントか

≪素敵な言葉≫

何もしたくない日というのもあります。
気分がのらないと言いますか、何も考えたくないといいますか。
そんな時はブログも書きたくなくなります。

ウソかホントか

こんなどうでもいいようなことを書いて、何を求めているのという声が聞こえてきました。
・・・そう言われると、考えたこともないね。書きたいと思ったから書いているわけで、私は人生に何も求めていません。

欲があるから人生って面白いのであって、何も求めないのなら生きている意味ないではないか。
・・・いや、生きていればいいと思っているのだから、生きたいという欲はある。
・・・死ぬまでは生き続けたい。
・・・いつまで生きたいという欲はなくて、死ななければならなくなった時は、静かに受け入れるだけ。明日死んでも、それはしょうがない。
・・・この世に思い残すことは、・・・ない。

残された妻のこと、子供のことは考えないの。
・・・彼らには彼らの人生があり、彼らなりに考えて生きていくだろう。

それって無責任じゃないの。
・・・無責任? 考えたこともないなあ。
死んだ後も責任があるのかな。
いつまで? 妻が死ぬまで? 子供が死ぬまで? 孫の代まで?

求めない人生なんて面白くないよ。
死ぬ直前まで、「この世でやり残したことがある・・・」と言って、ジタバタしながら「死にたくない」とわめいて死んだ方が、人間らしいと思うけどね。
・・・そうかなあ。

何か悟ったようなふりをして、そんな人間に限ってジタバタするんだから。

・・・そうだね。もう長生きしなくてもいいというおばあさんが、健康に気をつけて薬を大量に飲んでいるからね。
言ってることとやってることが逆。ぞもそれが人間というものかもしれない。

・・・だからあなたも、私の言っていることをそのまま受け取らずに、実は反対の人間だと思った方がいいよ。

メチャクチャ欲の深い人間だったりして・・・。
じゃ、今まで言ってたことはウソなんだ?

・・・いや、ホントかもしれないよ。

こんなどうでもいいようなことを書いて、何を求めているの・・・。

いま在る自分に感謝しています

身の丈に合ったブログ

 ≪素敵な言葉≫

このブログの絶頂期は三年ほど前でしょうか。
スピリチュアルに関する内容、怪しげな宗教の話、社会心理学について書いていたころは、毎日今の五倍ほどの読者に読まれていました。
結構、いい気分になっていました。
読み返すと内容も過激で、怪しげで面白いです。

身の丈に合ったブログ

あの頃、私の記事を読んだ怪しげな方たちからのアプローチもあり研修を頼まれたこともありましたが、皆さん怪しげですので、現実のまともな私、「普通のおじさん」を見て興ざめされたらしく、二度とお声はかかりませんでした。

新興宗教の信者さんからもお誘いがありましたが、惑わされることはなく自然と離れていかれました。
書籍化の話など、私の欲を餌に利用しようという話もありましたが、もともと「自己の霊的成長」を目的に始めたブログであり商売目的ではありませんから、欲がない人間をダマすのは容易ではありません。

有名になりたいとか、小銭を稼ぎたいとか、何の利害のないから、ブログとして成り立っていて、6年余り毎日書き続けることができています。

心理学や歴史の話、仏教の話、神道についても、実は相当詳しく、専門的に考察していて、なかなかのレベルだと自我自賛していますが・・・。

「生兵法はケガのもと」ということで、少しずつ小さくなることを心がけ、どこにでもある普通のブログに成り下がり、今のブログになりました。

良かったなと思っています。
あの頃調子に乗り、怪しげな能力をアピールして過激な記事を書いていたら、自分を過大評価して自我が肥大し、ネットというバーチャルな世界で、醜い化け物のようになっていたのかもしれません。

元々それだけの器がありませんでしたから、なるようになってきたということです。
あの時、もっと読者を増やしたいと欲を持っていたら、道を誤っていたでしょう。

 若いころ、不動産をしていたころも、同じようなバブルを経験しました。
自分を見失って、身を滅ぼした人を何人も見てきました。
あの時に、自分を見失わなかったおかげで今の自分があります。

「足るを知る」といいますか、「身の丈に合った生活を」と考えると、自分を客観的に見ることができます。

いま在る自分に感謝しています

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絶頂期はいつくるか

 ≪素敵な言葉≫

昨日の話の続きですが、自分に言い聞かせているということは、まだ「あたり前」にはなっていないということですから、まだまだどこかで手を抜いているということなのでしょうかね。

絶頂期はいつくるか

人間ってそこが難しいですね。
人生って、運も大切ですし、人との出会いも大切ですし、何よりも本人の才能といいますか、能力も大切です。
芸能界なんて、天才たちの集まりですね。

「ダメよ~ダメダメ」が流行っていますが、本人たちは逆にあせっているらしく、一発屋として、消えるのではないかと・・・。
世間って残酷です。
飽きるのも早い。

長い下積み期間を我慢して、やっと売れるようになった。
一発でもギャグが流行ればそれだけでもいいではないかという人もいますが、一度味わうと、それを無くすことが怖くなります。

人生ってそういうもんだと悟ったようにいうのは簡単ですが、何年も保ち続けている一流の人も存在します。
そして、消えていく人の方が多い。

あの頃、もっと頑張っておれば・・・。
そう思っている人がいかに多いことでしょう。
しかし、その時は忙しさに追われて、考える暇もなく時間だけが過ぎてしまいます。

下積みを長くしてきた芸人さんは、人気も長く続くような傾向もありますね。

自分自身に振り返ると、「あの頃・・・」と思う分岐点がいくつもありました。
しかし、当時はできなかったというのも必然のような気がします。
自分の人生で、絶頂期といわれるような時期が一体あったのだろうかと考えますと、もちろん一庶民のレベルでですが、いつも苦しかっただけで、まだ無い。

ちょっと遅いけど、きっとこれからの人生で味わうことができるはずだと信じて、その日のために、今日も地味な準備作業を続けようと思います。

ひょっとしたら、死ぬ前日あたりが、人生で最も素晴らしい時期だったりして・・・。
「このまま死ねて、おれば幸せだった・・・」と叫んだりして。

いま在る自分に感謝しています