神宮紹介】【史記】【徐福伝説】【宇宙意志】【老大木の教え】【人材育成雑記帳】【いま蘇る日の宮
スピリチュアル心理学】【天神木のブログ】【社会心理学】【インナーマネジメント】【灯明】【感謝
ロジカルシンキング】【扉が開いた】【密教と超能力】【人生の分岐点】【阿曇磯良

九州王朝説

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、狂瀾編(1)

 神功皇后がヤマト政権を倒した後は、本格的な古墳時代となる。

≪なお以下の文章は、阿曇磯良伝説とはあまり関係ありませんが、プロローグとしてお読みください。≫

 九州王朝説

このころの歴史的な事実は、朝鮮の資料のほうが確実なようで、この時代の、倭(日本)・百済連合と高句麗・新羅連合による朝鮮半島での覇権争いが続いていた。
歴史的には「倭の五王」の時代だが、これが日本書紀の記述との整合性が取れず、謎の時代となっている。

≪これらの矛盾を一挙に解決する説が、有名な九州王朝説です。≫

373年(あるいは372年、神功摂政52年)に百済は七枝刀を献上したとある。
「倭王旨に贈られた」とあり、百済と倭は軍事同盟を結んでいたと考えられるが、この「倭王旨」が歴代天皇の誰に該当するのか、全然整合性がとれない。

そこで、ヤマト政権とは別に、九州王朝が存在していて、朝鮮の資料に出てくる倭とは九州王朝のことと解する説が九州王朝説である。

邪馬台国九州説の流れをくみ、地元の人間としてはまことにうれしい考え方であり、多くの書物を読んだが、イメージがよんわかないのも事実である。

古墳時代、畿内地方には多くの巨大古墳が造営されたが、同一の王権が大規模な対外戦争を継続しながら同時にこのような大規模な巨大古墳の造営を多数行うということは考えられない。
畿内地方に多くの巨大古墳を造っていたのは、朝鮮半島で活発に軍事活動を行っていた「倭」からはある程度独立した地方の勢力だったとみるのが常識的だろうと思う。

この時代は古墳の形態も地域によって特色があり、出雲や吉備等にも独立した勢力が存在したことを示している。

414年建立の高句麗「好太王(広開土王)碑」によれば、次のような記載が残っている。
以下は歴史的事実と思われる。

391年 :倭が海を渡り、百済・新羅を破り、臣民となす。
396年 :好太王みずから軍を率いて百済を下す。
399年 :百済が誓約に違反して、倭と通じる。また、倭軍が新羅国境に満ち、新羅は高句麗の援軍を要請。
400年 :好太王は歩騎五万の新羅救援軍を派遣。倭軍が新羅城内に満ちていた。
 しかし、倭軍を破り、任那・加羅まで追撃する。
404年 :倭軍が今度は帯方地方に侵入。好太王は倭軍を破り、斬殺無数。
407年 :好太王は歩騎五万を派遣して、(倭軍)と合戦し斬殺し尽くす。
 戦利品の鎧甲は一万余、軍資器械は数えきれず。

上記のように書かれてある。

倭王武、通説では、雄略天皇に比定されている。
『宋書』478年の倭王武の上表文で、「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国」とあるが、倭王武は自らを東夷であると認識しており、通説のように倭を畿内とすると「東の毛人」=中部・関東、「西の衆夷」=畿内・中国・四国・九州、「渡りて海北」=???、となり、比定地を特定することができない。

しかし倭を九州とすると、「東の毛人」=畿内、「西の衆夷」=九州、「渡りて海北」=朝鮮半島南部となり、比定地の特定が可能である。

つまり倭王は、九州に居た。

≪調べ出すと興味は尽きないし、「磐井の乱」まで考察しないといけないなと言うことで、一旦この話はやめます。昔そうとう書物を読みました。
武内スクネは、元々九州の大王であり、水沼の君、筑紫の磐井と続く・・・。≫

河内王朝

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、怒涛編(11)

神功皇后が実質的な支配者になり、スクネが大臣として補佐する形で、政治は一応の安定を見た。

河内王朝

崇神王朝は大和の三輪地方(三輪山麓)に本拠をおいたと推測され三輪王朝ともよばれている。
応神王朝は天皇の宮と御陵が河内に多いことから河内王朝ともよばれている。

単に都の位置が変化しただけではなく、王朝が変化したのだという「王朝交代説」もあるが、この点は勉強不足でよく解らない。
ただ、神功皇后、応神天皇が三輪王朝の血統ではなかったというのは事実だと考えるし、当時誰もが知っていたと思う。

河内王朝の特色は、巨大古墳に象徴されている権力の強大さで、軍事による統治の象徴ではないかと考える。

神功皇后の母方の実家である有力豪族である葛城氏の本拠地であるから、この地に都をおき、政治的に支配したと考えられるが、瀬戸内海の海上権を握ったことも関係している。
 海上交通を取り仕切っていた阿曇氏との関係、九州との物流の要所という位置関係も関係しているかもしれない。

 また、ヤマトタレルの白鳥伝説もこの地から始まった。
ヤマトタケルの霊が白鳥になって、河内湖に戻り、さらに羽曳野を越えて、河内葛城に向かった。そこに葛城高額比売(たかぬかひめ)がいた。
彼女は若倭根子日子大毘々命(第九代開化天皇)の玄孫である丹波の豪族息長宿祢と結ばれて、息長帯比売(神功皇后)を生みました。
そして比売はヤマトタケルの皇子と結婚する。

王朝の正当性を主張するために創られた伝説であるかも、と想像している。

当時、若き応神天皇(皇子)を補佐する形でじっさいの権力を持っていたのは、武内宿祢であり、神功皇后は巫女として、人前にはほとんど出なかったと思っている。

いや、出れなかった。
皇子が三歳の頃、秘かにスクネの子を出産したという伝説が残っている。

後に「天君公」と言われるが、この赤子をスクネはイソラに託し、遠く九州の「高天原」に隠した。
 なお、スクネは神功皇后の実の妹を正室としていた。

後にこの事を知った応神天皇は、後々の憂いを消すために兵を送り、天君公を打ち滅ぼす。

≪その伝説が「幣立神宮」残っており、その伝説を知ったことから、この壮大な物語に対する興味がわき、この小説を書こうということを思いつきました。
春木宮司さんの著書「「青年地球誕生」という本の中に書かれていました。
この時の様子が、霊能者のビジョンとして描かれています。
読み直していただければ、以前書いたこの物語がよりよく理解できると思います。≫


≪高天原の霊告≫第1話 高天原の乱

この物語、最終章である狂瀾編へと続く

◆続きを読む »

倭国の女王 (三)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、怒涛編(10)

倭国の女王 (三)

 新羅との一件から、八年が過ぎた神功皇后摂政13年2月8日、スクネは、日嗣皇子(ヒツギノミコ:皇太子の事)の御供となって、敦賀の気比大神(ケヒノオオカミ)に参拝している。
この時、皇太子は13歳である。スクネは、それまで実の子のように?、何かと皇太子の世話を焼いていた。

思えば、この地から、スクネと神功皇后の長き旅が始まった。
スクネにとって、思い出深い地であったことは間違いない。

≪この記事の主旨がよくわからない。何のためにこの記事が挿入されたのか、応神天皇の神格化のためなのか、なぜ宴会をして祝ったのか。

考えてみた。・・・今でいう元服式と言うようなものではなかったか。
気比大神は、神功皇后にとって先祖である新羅の王子、天之日矛(アメノヒホコ)ゆかりの地であり、その継承者である神功皇后の子供が、次のヤマトの王になると宣言するためだったのだろう。≫

スクネを御供に連れて、敦賀を訪れた誉田別尊(ホムタワケノミコト)は、拝礼の時に不思議な体験をしたという逸話が残っている。
 誉田別尊の前に現れたのは、気比大神で、その名前を取り換えたのだという。
 その結果、大神が去来紗別神(イザサワケノカミ)となり、皇子が誉田別尊となった。

 そうなると、それまでの皇子の名前は誉田別ではなく、去来紗別だったという事になるのか?

17日、誉田別尊とスクネらが敦賀より帰り、皇后は、皇子の為に大殿で宴会を催した。
この時、神功皇后は歌を唄った。

この御酒(みき)は 我が御酒ではない
神酒の司(かみ)で 常世(とこよ)においでの
石(いわ)立(た)たす 少彦名(すくなひこな)御神が
にぎやかに寿ぎ 寿ぎて踊り廻り
神として寿ぎ 寿ぎて舞い狂い
たてまつってきた御酒だよ
残さず飲みなさいよ さあさあ


 ちなみに、少彦名とは、少彦名命(スクナヒコナノミコト)という酒造りの神の事である。神様に祝福された酒(今の自分たちの立場)なのだから、喜んで味あおうということなのだろう。

この歌が唄われた、すぐ後に、スクネが皇子に代わって答歌した。

この御酒を 醸(かも)した人は
鼓(つづみ:太鼓の事)を 臼(うす)のように立てて
歌いながら 醸したからなのか
なんとも楽しい気分になるよ さあさあ


倭国の女王となり、我が子が次の天皇になるという喜びの気持ちが表れている。
新しい王朝が始まり、次の天皇の地位も我が子が継ぐことが確定し、政治もある程度安定したのだろうと思われる。

倭国の女王 (二)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、怒涛編(9)

倭国の女王 (二)

この時期の年表を見ると、朝鮮半島とのごたごたが続いていたことがよくわかる。

神功皇后摂政5年3月7日、新羅より汙礼斯伐(ウレシホツ)、毛麻利叱智(モマリシチ)、富羅母智(ホラモチ)の三名が来朝した。

 三人は、貢物を捧げた後、我が国の人質となっていた新羅王子の微叱己知波珍干岐(ミシコチハトリカンキ)を訪ねている。
つまり、新羅征伐後、人質を連れてきているという事実が分かる。

 この新羅王子は、皇后に謁見し、次のように願い出た。
「太后様。三人の使者より恐ろしき事を聞きました。
我が父である新羅王、波沙寐錦(ハサムキム)は、私が久しく戻らない事を罪として、我が妻子を連座と称して奴隷にしたというのです。
しかし、我が父が、実の息子に対して、そのような浅ましき事を行うとは到底思えません。願わくば、事の真偽を確かめんが為、しばらく新羅に戻らせて頂きたいのです。」

 「にわかには信じ難き事だが、一旦、国に帰る事を許しましょう。
しかし、汝は人質の身であり、葛城襲津彦(カズラキノソツヒコ)を副将として付けましょう。」
この葛城襲津彦はスクネの子で、護衛、監視役であった。

一行は対馬の、ワニツに到着したが、その夜、毛麻利叱智(モマリシチ)らは、新羅王子と共に逃亡した。

 翌朝、まだ姿を現さない新羅王子をケゲンに思った葛城襲津彦が問うた。
 「王子はまだ起きては来られぬのか?」
 この問いに、誰かがこう答えた。

 「王子は突然の病にかかり死にそうです。」
 「何?!何故それを早く言わん!すぐに典医を遣わすのだ!」
 襲津彦の命を受け、王子の寝所を訪れた典医は、布団に潜ったままの王子を視認した。
 典医が布団に近付き、こう述べる。

 「王子様。朝から具合が悪いとか。しばらくの間ですが、御身体を見させて頂きまするぞ。」
 しかし、王子からは何の返事もない。

 仕方なく、典医自ら、掛け布団をめくり上げると、そこには王子ではなく、草束で作られた人形が安置されていた。
残った供の者は檻に閉じ込められたまま、焼き殺されてしまった。

その後、襲津彦は、報復のため、そのまま予定通り新羅へと向かった。
蹈鞴津(タタラノツ:釜山の南の多大浦)に上陸し、草羅城(サワラノサシ:慶尚南道梁山)を攻撃、これを陥落させたと書かれてある。

 この後、帰国したという記述がされており、詳しい事は書かれていないが、新羅側の謝罪があったのであろう。その後の記事に新羅からの朝貢記事が見える。

また、人質を連れ帰ったという記述はない事から、人質は取らない方向で、話はまとまったようである。


≪余談≫

葛城襲津彦
「対朝鮮外交での活躍が記されるほか、『百済記』の類似人物名から強い実在性が指摘される人物である。」と書かれてあるが、「武内宿禰の子で、葛城氏およびその同族の祖とされるほか、履中天皇(第16代)・反正天皇(第17代)・允恭天皇(第18代)の外祖父である。」

つまり、武内宿禰は実在の人物であったということになります。
伝説の人物であり、あまりに長命であったことから実在が疑われているが、私は筑後の高良山に祀られている「高良神」こそ、この武内宿禰であると思っています。

◆続きを読む »

倭国の女王 (一)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、怒涛編(8)

倭国の女王 (一)

しかし、すぐに敗北した訳ではなかったらしい。
反乱軍は途中のどこかで武器を調達したのであろう。

 山背(やましろ:後の山城国。今の京都府南部)と近淡海(ちかつおおみ:後の近江国。今の滋賀県)の国境付近である逢坂(おうさか:今の滋賀県大津市逢坂)で最後の遭遇戦を行った。
ちなみに、敵に逢った、遭遇したという事で、逢坂という地名になったと記述されている。
逢坂の戦いにも敗れた反乱軍は、次に狭狭浪(ささなみ:今の滋賀県大津市)の栗林(くるす:現在の大津市粟津)にて、皇軍を迎え撃った。

 この戦いでも皇后軍が大勝利を収め、ついに反乱軍を追いつめた。
 ちなみに、この戦いは激戦であったようで、大量の血が栗林に溢れたと記されている。

 この事を嫌がり、後の世になっても、この地の栗は御所に勧めない事になったそうである。
反乱軍の将は、とうとう忍熊皇子と吉師五十狭茅宿禰の二人だけとなってしまっていた。
そして、もう逃げ場などなくなっていた。

二人とも、瀬田の渡(わたり)に身を投げて入水(じゅすい:海や川に身を投げて自殺すること)した。
すぐさま、彼らの屍を捜索させたが、結局、見つける事は出来なかった。
そして数日後のある日、彼らの屍は菟道河(うじがわ:今の京都府宇治市に流れる宇治川)で発見された。

≪この場面の記述をあれこれ眺めいてると、スクネではなくて、反乱軍の方に感情を移入してしまう。滅びゆく者の悲哀を感じてしまう。≫

戦後の論功行賞などを終えたと思われるのが10月2日、朝廷は神功皇后に対して、皇太后の尊号を贈っている。
 そして、皇太子である誉田別尊の即位は行われず、神功皇后が摂政となった。

≪ついに実質的な倭国の女王になったものと思われる。≫

年明けて、一年後の11月8日、ようやく亡き先代、第十四代仲哀天皇は葬られる事となった。陵(ミササギ:高貴な方の墓。墳墓)は、恵我長野西陵(エガノナガノノニシ・ノミササギ)と呼ばれた。
ちなみに、現在の大阪府藤井寺市藤井寺四丁目の岡ミサンザイ古墳と推定されている。

翌年の1月3日、神功皇后は、我が子である誉田別尊を正式に日嗣皇子(ヒツギノミコ:皇太子の事)とし、宮(天子の居住地)も磐余(イワレ:奈良県桜井市中部から橿原市東南部周辺)に移している。

 宮は、磐余若松宮(イワレワカマツノミヤ)と呼ばれた。
新たな宮も造営され、神功皇后の治世は順調に開始された。

≪余談、古事記や日本書紀を調べているが、前帝の成務帝のことが全く出てこない。
皇位を禅譲したことになっているのか、天皇は死ぬまで天皇のはずだから、神功皇后が摂政として政治の実権を握った時、まだ成務帝は存命であったのかもしれない。
このあたりの年代は、整合性がなく良くわからない。≫

大和政権奪取 (三)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、怒涛編(7)

大和政権奪取 (三)

忍熊皇子は仲哀天皇の御陵造営のためと偽って、播磨赤石(明石市)に陣地を構築し、倉見別(犬上君の祖)・五十狭茅宿禰(イサチノスクネ)を将軍として東国兵を集めた。

もちろんその背後には、成務帝がいる。
しかし、実子がいないということで、「麛坂皇子に王位を譲る」とささやき、扇動したはずである。

「そもそも誉田別王が生まれた時期からして、これは仲哀天皇の子供ではないのではないかという疑いもある。自分達こそが正当な皇位継承者であることは間違いない。」

ところが、菟餓野(トガノ、兵庫県神戸市灘区の都賀川流域か)で反乱の成否を占う狩を行った際、麛坂皇子が猪に襲われて薨去し、不吉な前兆に恐れをなした忍熊皇子は住吉に後退してしまった。

一方の神功皇后は海路(瀬戸内海)の要所に天照大神・住吉大神を鎮祭し、直接河内に乗り込むのではなく、紀伊に上陸した。

≪南海道にはイソラが開拓した阿曇族の拠点もあり、旧仲哀天皇を支持する勢力が残っていた。彼らの力を統合したほうが勢力が強くなると考えたのだろうと想像する。そして、初代の神武天皇がヤマト東征を果たした時の古事に習ったのかもしれない≫

忍熊皇子軍は更に退いて菟道(ウジ=宇治)に陣立てし、スクネと武振熊(タケフルクマ=和珥臣の祖)を将軍とする筑紫の皇后軍に挑んだ。
なお勝利した皇后軍が官軍であり、忍熊皇子軍は反乱軍と言うことになる。

そしていよいよ軍勢が衝突するという所に至った時、神功皇后側は奇策に出た。
「敵は撃って出んとしている、皆、髪を椎(つち:木槌や金槌の先端部分)のような形に結い直せ。そこに予備の弓の弦(つる)を隠し、腰には木刀を帯びよ!」

そうこうしている内に、忍熊皇子が率いる反乱軍は、皇后軍の前に対峙する形で、河を挟んで陣を布いた。

スクネ自身が忍熊皇子の元への使者に立った。
「我は武内宿禰である。我は天下を疲弊させることを望まず。」

我らはただ皇后のお子様をお連れしただけであり、天皇の地位などは望んでおりませぬ。我らも次期天皇には忍熊皇子殿がふさわしいと考えております。

武装していたのは皇后のお子様をここまでお守りしてくるためです。
謀反の心が無い証拠に武器は今すぐ捨てさせましょうと言った。

そして合図をすると、軍勢はみな武器を川に投げ捨てた。

ここですっかり信用した忍熊皇子は自分たちも武装を解き、神功皇后の一行を迎え入れたが、皇后側はちゃんと捨てた武器以外に予備の武器を隠していた。
頭に隠した予備の弦で新しく弓を張り直し、本物の剣を腰に帯びさせて、いつでも攻撃出来る態勢を築いたのである。
そして、武内宿禰と武振熊率いる皇后軍は菟道河を渡河し、猛然と反乱軍に攻めかかった。

 忍熊皇子は、側近に口惜しそうに語ったという。
 「我は騙された。今、我が軍には武器がない。これでは戦にならぬ・・。」

 戦場は一気に会戦から追撃戦、及び退却戦へ。
 一人、また一人と将兵が討ち取られていった。

大和政権奪取 (二)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、怒涛編(6)

大和政権奪取 (二)

仲哀天皇の皇子の香坂皇子と忍熊皇子は、仲哀天皇のいる筑紫政権と連絡を取り合っていて、ゲリラ活動を行っていた。

成務帝と物部トオチネ大臣は、政治の中心から、タラシナカツ彦王子を退け吉備武彦を幽閉することに成功したが、さすがに彼の子供たちまで暗殺するというような乱暴なことはできなかった。

タラシナカツ彦王子が息長タラシ姫と結びつき、さらに政治の中枢から排除したはずのスクネまでもが、遠く筑紫の地で「反逆」するとは、予測もしていなかったであろう。
天皇に元々、子供がいなかったこともあり政治的な実力もなかったため、タラシナカツ彦王子を追討するようなこともできなかったのだろうと想像する。

そして、仲哀天皇の皇子の香坂皇子と忍熊皇子は、ヤマト政権に対して嫌がらせのようなゲリラ活動をしていたが、実はその背後に資金の手当てや武器の調達など、筑紫政権が動いていたはずである。
ヤマト朝廷内での権力争いもあったはずで、実力者の葛城氏や息長氏も陰で動いていた。

≪これから話す内容については、歴史は全く触れていない。≫

タラシナカツ彦王子が南海道に逃れ、その後ヤマト政権内でいったい何が起こったのか。

実は、成務帝を支えていた物部トチオネ大臣とその息子の物部胆咋(モノノベノイクイ)が失脚したのである。

吉備武彦が、自宅に幽閉されたところまでは述べた。
子供の吉備カモワケは、タラシナカツ彦王子と行動を共にし、南海道から筑紫まで同行していた。

ヤマト政権の政治的変化は実力者であった物部トチオネ大臣が、自然死か、事件なのかよくわからないが、死亡したことから始まった。

当時、成務帝を支えていたのは、異母弟の五百城入彦皇子(イオキイリビコノミコ)だけであったが、勢力図が大きく変化した。

タラシ姫の父である息長翁と葛城王が動揺している朝廷内の豪族たちに工作して、香坂皇子と忍熊皇子をヤマト政権内に迎え入れ、身分を保証しようとうまく事態の収拾を図ったと想像される。

香坂皇子と忍熊皇子は政治的な復権を遂げたわけだから、祖父ヤマトタケルの志を継いだ父仲哀天皇の想いを果たしたわけである。

その吉報を筑紫政権に伝えようとしたとき、突然、父親の死を知った。
表向きは、天皇の死は伏せられていたとはいえ、おそらく伝わったであろう。

その時期がいつだったかが、ここで問題になる。
ヤマト政権の政治的変化を知ったのちに、事件が起こったのか、それともただの偶然だったのか。

≪ひょっとしたら、ヤマトの政治状況の変化が、天皇暗殺の遠因だったのかもしれない。天皇の政治的権力が増すことを筑紫の勢力が嫌がったから・・・。≫

神功皇后が、朝鮮に留まらず、征伐から帰ってすぐ赤子を生んだということは、このヤマト政権の政治状況の変化が原因だったのかもしれない。
仲哀天皇の皇子が政治的実権を握れば、当然皇位継承の争いが生じる。

神功皇后に子ができたので、誉田別皇子が皇位継承に最有力とはいえ、なんといっても生まれたばかりの赤子であるから、当分皇位継承はありえない。
そこで、いつまでも空位というわけにいかないとすれば、香坂皇子と忍熊皇子が有力候補になる。

ヤマト政権をしっかり固めておけば、神功皇后がヤマトに戻ってきてもなんとかなるかもしれないと考えてもおかしくはない。

大和政権奪取 (一)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、怒涛編(5)

大和政権奪取 (一)

神功皇后はすっかり変わってしまった。
大人の女性になり、女王としての振る舞いも自信に満ちている。
息長氏や葛城氏が彼女を支え、スクネがお側で実務を取り仕切っていた。

神功皇后は新羅征伐から戻り、12月14日に誉田別王(ホムタワケオウ)を宇瀰(ウミ)で出産した。
予言通り、男の子であった。

≪宇美と蚊田について
出産地について、神功皇后摂政の巻では宇瀰としているが、同じ日本書紀の誉田天皇(応神天皇)の巻では「誉田天皇は皇后が新羅を討った年の冬12月に、筑紫の蚊田に生まれた。」となっている。宇美=蚊田説と別の場所説がある。
三歳で、立太子となり、応神天皇元年に71歳で即位、同41年に111歳で崩御と記されているが、即位までの時間が長すぎる。神功皇后が実質的に女王として即位していたため、崩御の後に即位したのであろうか。≫


スクネは歓喜して喜んだ。
タラシ姫の巫女としてのすごさというか、運の強さと言うか、これで「倭国の女王となる」という野望に一歩近づくことができる。

この勢いに乗って、一気に近畿ヤマトに攻め昇る必要がある。

スクネは直ちに熊襲の勢力との和睦に動いた。
具体的には、スクネの妃として熊襲の一族の姫と婚姻したのである。
当時は、氏族同士の婚姻は、当たり前の事であり、実力があればあるほど大勢の妃を抱えていた。
タラシ姫との関係を隠すという意味合いもあり、政治的な思惑であったが、内心、姫は面白くない。

その感情を振り切ったのは、姫の強さではあったが、この頃から二人の間に微妙な空気が流れ始めたと、私は想像している。
十三年後に、スクネの身に災難が降りかかることになった。

 筑紫王朝はこの男の子を次期天皇としてかかげ、大和へと凱旋することになる。
 新羅の最先端の武器なども手に入れ、筑紫の氏族たちの武力を背景に、いよいよ近畿へ凱旋して、近畿の成務帝から王権を奪取することにした。

 阿曇一族の同族であるワニ氏もスクネと行動を共にした。

その時に、大義名分として利用したのが、「ヤマトタケルの白鳥伝説」である。
ヤマトタケルの霊魂が、神功皇后に宿り、生まれかわり誉田別王(ホムタワケオウ)が生まれたという説である。
つまり皇系の正当性の強調であり、それだけ怪しげだったということである。

その時、大和には、仲哀天皇が大中姫(オオナカツヒメ)との間にもうけた麛坂皇子、忍熊皇子が残っている。

『古事記』『日本書紀』によれば、新羅征討中に仲哀天皇が崩御し、神功皇后が筑紫で誉田別王(ホムタワケオウ)を出産したとの報に接した忍熊皇子は、次の皇位が幼い皇子に決まることを恐れ、兄の麛坂皇子と共謀して、筑紫から凱旋する皇后軍を迎撃しようとした。

この部分の記述がおかしい。

記紀は成務天皇と仲哀天皇の両朝対立を隠蔽しているので、成務天皇のいる志賀高穴穂宮政権を打倒する戦いが抜けている。

もし成務天皇との内戦がないのなら、神功皇后が自ら新羅に攻め込んだのだから、新羅に居座って半島での支配の基礎固めをしたのかもしれない。
戦いが済んですぐに筑紫に戻って誉田別皇子を産んだのは、成務帝のいるヤマト政権が気になっていたからである。

おそらく新羅攻めの隙に、筑紫政権が攻められないように、畿内に潜んでいた仲哀天皇の皇子の香坂皇子と忍熊皇子が、ゲリラ戦や破壊活動を強めていたのだと考えると・・・。

 そして、革命が成功し、神宮皇后がヤマトに凱旋するとき待ち構えていたのは忍熊皇子らであった。

◆続きを読む »