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神意の真相 (一)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、回天編(18)

どのように仲哀天皇が死んだのか、古事記や日本書紀には詳しく書かれていない。しかし状況を考えれば、暗殺されたというのは間違いないと私は思う。
誰が殺したのか?
神功皇后が呪い殺したのか。

以前、「白鳥伝説」で、神功皇后の母、葛城高額姫が神憑りにあった時のことを思い出してほしい。
「古事記の中にこの物語が書かれている意味は、そのヤマトタケル霊が次の王朝の祖となる神功皇后の中に入ったと言いたいからではないか」とその時に述べた。

葛城高額姫が息長宿禰王に嫁ぐ前、鬼神に憑かれたように叫び声をあげて湖に向かって駆け出した。
その湖の畔で、大きな白鳥が今にも姫に襲いかかろうとした時、葛城のヒダカがその大白鳥に向かって弓を射て、その大白鳥を殺した。

つまりこの時、ヤマトタケルの怨霊は神功皇后の母に取り付けなかった。
そして、その第二子であるタラシナカツ彦王子も神功皇后と契りを結ぼうとしたが、できなかった。そして皇后に殺されたのである。
実際に殺したのは、神功皇后の命をうけた葛城のヒダカであった。

これは小説であることを断っておく。

 事前に打ち合わせ済であったはずである。そうでなければ、その後の手際が良すぎる。
真相はこうである。

その日の夕方、葛城のヒダカは神功皇后に呼ばれた。側にスクネも控えていたがその表情から、一大事であることは想像できた。

「今夜、神憑りの神事を行うが、天皇が神の神意に反対して私に襲いかかろうとするであろう。その時は、ヒダカ、母を白鳥から守ったように私を護ってほしい。」
「ななっなんと、白鳥から姫を守るとは、弓で射よということですか・・・。」
突然の皇后の言葉に、次の言葉が出てこない。

「そうです。天皇は父のヤマトタケルに強くあこがれ、熊襲タケル征伐をした父の偉業を引き継ごうと焦っています。熊襲は強国であり、このままでは平定のめどは立ちません。
私は天皇に失望しました。熊襲も征伐できないならば、ヤマトをとるというヤマトタケルの悲願を達成することなど到底無理です。」
その場にいたスクネが付け加えた。

「ヤマトを手に入れることを第一義に考えるのなら、ここは一応熊襲と和平すべきではないかと皇后はお考えなのです。そしてできれば屈強な熊襲の軍団をヤマト攻めに使いたいのです。」
「なるほど、私もそう思います。我らの今の兵力では熊襲との戦いも容易ではありません。」

「それでもまだヤマト攻めには不十分です。筑紫の国にきてもっとも驚いたのが大陸との交易が盛んなことです。この交易で戦費を蓄えて、最新の武器を調えればヤマト攻めも可能ではないかということに気づきました。」
「それは名案だと思います。」
「しかし現実にはそれは熊襲との戦争でなくなってしまいます。だから熊襲征伐は後回しにしようと・・・。」

スクネが説明したのは、今後の現実的な戦略であった。
筑紫にとってはたしかに熊襲が仇敵である。それは征伐しなければならない。

そして朝鮮半島からは多くの人が交易に渡ってきたし、渡来人として住み着いていた。
特に新羅の人々は神功皇后が母方の葛城氏が新羅の王子だった天日矛の子孫だということで、親交を求めてきた。

その者たちの話では新羅は宝の国で豊な富や進んだ武器があると言う。
それに天日矛は本来なら新羅の王となるべき人だったし、世が世ならば王族の血筋である神功皇后こそ新羅の支配者のはずだったのに・・・。

神の神意

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、回天編(17)

前回の古事記の内容について、日本書紀では次のように記述されている。

秋九月五日、群臣に詔して熊襲を討つことを相談させられた。
ときに神があって皇后に託し神託を垂れ、「天皇はどうして熊襲の従わないことを憂うれえられるのか、そこは荒れて痩やせた地である。戦いをして討つのに足りない。この国よりも勝まさって宝のある国、譬えば処女の眉のように海上に見える国がある。目に眩まばゆい金・銀・彩色などが沢山ある。

これを栲衾新羅国(タクブスマシラギノクニ)という(栲衾は白い布で新羅の枕詞)。もしよく自分を祀ったら、刀に血ぬらないで、その国はきっと服従するであろう。

また熊襲も従うであろう。その祭りをするには、天皇の御船と穴門直践立(アナトノアタイホムダチ)が献上した水田――名づけて大田という。これらのものをお供えしなさい」と述べられた。

天皇は神の言葉を聞かれたが、疑いの心がおありになった。
そこで高い岳に登って遥か大海を眺められたが、広々としていて国は見えなかった。

天皇は神に答えて、「私が見渡しましたのに、海だけがあって国はありません。どうして大空に国がありましょうか。どこの神が徒に私を欺くのでしょう。またわが皇祖の諸天皇たちは、ことごとく神祇をお祀りしておられます。どうして残っておられる神がありましょうか」といわれた。

神はまた皇后に託して「水に映る影のように、鮮明に自分が上から見下ろしている国を、どうして国がないといって、わが言をそしるのか、汝はこのようにいって遂に実行しないのであれば、汝は国を保てないであろう。ただし皇后は今はじめて孕みごもっておられる。その御子が国を得られるだろ」といわれた。

天皇はなおも信じられなくて、熊襲を討たれたが、勝てないで帰った。
九年春二月五日、天皇は急に病気になられ、翌日はもう亡くなられた。
時に、年五十二。すなわち、神のお言葉を採用されなかったので早く亡くなられたことがうかがわれる。

以上、古事記と日本書紀の内容を何度も読み返してみた。多少の違いはあるが、ほぼ同じような内容である。しつこいようだが、重要な場面なので以後、何度も繰り返す。

仲哀天皇にとっては、父ヤマトタケルの英雄伝説にならって自分も熊襲を征伐することでヤマトに対して実力を見せつけたいという欲求があったのだろうと想像する。
 その会議を開こうとした時、神功皇后が神憑りして突飛なことを言い出したが、実際は神功皇后の意志であると仲哀天皇は疑った。
突然「新羅国を攻めよ」と言うのである。
仲哀天皇としては父と同じように熊襲を攻め、九州を平定してその兵力を背景としてヤマトに攻め上ればよいと考えている。
 自分を欺くのかと怒ると、「わが言をそしるのか・・」と逆に怒りだす。
大変な夫婦喧嘩?という事態である。

そして、突然に天皇が死ぬ。

古事記では、その後、5人の近臣に詔して緘口令を敷き、武内宿禰に命じて天皇の遺体をひそかに海路から穴門豊浦宮に運ばせ殯(モガリ=仮葬)をさせたと書かれている。

 つまり、天皇の喪を隠した。
「いま天下の人は天皇の亡くなられたことを知らない。もし人民が知ったなら、気がゆるむかも知れない」といわれ、四人の大夫に命ぜられ、多くの役人て宮中を守らせられた。
反対勢力を抑えるためであった。

「二十二日、大臣武内宿禰は、穴門から帰って皇后に御報告した。この年は新羅の役があって、天皇の葬儀は行われなかった。」

ただ今練習中

以前、会社でおやじバンドをはじめたという話をしました。
言いだしっぺは、私です。

○○校の前は、商店街のアーケードがありそこで、下手な合奏をしようと言うのです。
商店街のイベント「十日市」で人が集まる時に、「上を向いて歩こう」を合奏しようという計画。

そして、実際になんとか演奏し、その様子を恥ずかしくもなくユーチューブにアップ。
あの日から一か月あまり。

ますます、会社でバンド熱は高まっていき、新たにアルトサックス、テナーサックス、そしてついにドラムを買いました。…会社の福利厚生費で。
研修費にしようかな。

 六月に入り、全員仕事が忙しく練習する暇はないのですが、忙しい時ほど、楽しいです。

その時久しぶりにギターを弾いてみて愕然としました。
指が動かないし、弦を抑える指先が痛くなってヒリヒリ。これは思っていた以上に大変であることに気づきました。
そして、毎日少しずつ練習を始めました。

八月の十日市で発表会をするぞということで、「なごり雪」を練習。
ところが知らないコードが出てきたり、ハイコードで指を抑える場所がわからない。

三十五年前に、挫折したことを忘れていました。
才能がないとわかっていたはずなのに、すっかり忘れていたのです。

妻が変な顔をしました。
「真夏なのに、なんでなごり雪なの?」

確かに、そう言われればそうです。
でも、気にしないことにします。

このいい加減さが、我が社の「強み」です。
サックスなど吹いたこともないし、ドレミの音も出せないのですから。
そして、誰がドラムを叩くのかも決まっていません。

とりあえす形から。

このブログも書かなくてはならないし、楽譜をコンピュータに打ち込まなくてはならないし、とても仕事をしている暇はありません。
実は、昨日から、外部講師の仕事が始まり、しっかり六時間講義をしています。
そして、家に帰りひたすら、練習。指もヒリヒリ。

 他の社員も、ニコニコしながら、「いやいや」と言っています。

また、たまにはこのような記事を載せます。

いま在る自分に感謝しています

筑紫の訶志比宮 (二)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、回天編(16)

筑紫の訶志比宮(カシヒノミヤ)に入った神功皇后には、敦賀から一緒に九州に来たイトと葛城氏のヒダカが付き添っていた。
「九州で新たな政権を創り、やがて近畿に戻り新たな王朝を創る」という目的のため、命をかけて姫を守らなければならないという決意であった。

 穴門の豊浦宮に、ヒダカが神功皇后と共に船で到着した時、スクネの出迎えを受けた。
 姫の顔には、愛しい人との出会いを喜ぶ乙女の笑顔があった。
スクネが夫となるのが姫の秘かな願いであるということは、イトもヒダカもわかっていた。

その後、宮殿の中で仲哀天皇と会った時の表情は、どことなく緊張したような表情であり、幼き頃より姫と共に過ごしてきたヒダカには、その気持ちがよくわかる。
夫となる仲哀天皇と閨を共にしなければならない。
 
仲哀天皇はどのような気持ちであったろう。
妃の大中媛とその子供たちは現在、奈良の纒向日代宮に残している。
そして吉備武彦は自宅に監禁されている状態のままであり、息子の吉備カモワケは九州まで従って来てくれているが、自分にはこの地には政治的な基盤がない。

神功皇后に従っている連中との仲も微妙であったと思われる。
 今、自分が頼ることができるのは、正妃として迎える神功皇后の勢力だけという状態である。
その年若い正妃がなかなか気が強く、巫女としての能力も高いので自分の思い通りに動かない。そして、内心、姫を恐れている自分がいる。

姫が穴門の豊浦宮に着いた夜、閨で姫を抱こうとしたが、緊張のあまりうまくいかなかった。酒を飲みすぎたせいかもしれない。興奮しすぎて、姫に触れようとした時、気を失ってしまった。
次の日は酒を飲まずに閨を共にしたが、下半身が言うことを聞かなかった。

姫は、年に似合わず平然とした態度であり、その態度自体が気にいらず怒りの感情が湧く。しかし、政治的な同志として重要な正妃であり、表向きは仲よくしなければならない。
そして、自分の身体の一部が自由にならない。
このことは公には出来ない恥ずかしい出来事であった。
 
 海路から、北九州の豪族たちを従えるために巡幸した時、意識的に夫婦は別の舟に乗り別行動をしている。できれば皇后と一緒に行動したくないという気持ちがそうさせたのかもしれない。

筑紫の訶志比宮に入って、今後の方針について話し合いをすることになった時、仲哀天皇と神功皇后の意見はついに真っ向から対立することになった。

以下の内容は古事記による。

 沙庭(サニワ)とは、元は「清庭」(サヤニワ)の意味で、神を祭り神託を受けるために忌み清めた庭(場所)のことを指した。
 天皇が琴を弾き、武内宿禰が沙庭(サニワ)に居て神の命を請うたという記述が古事記にある。
ここで沙庭は場所の意味であるが、武内宿禰が「巫女が神憑りして述べた言葉がどういう神意なのかを解釈して伝える審神者を務めた」ということになる。

その後の記述では、神が神功皇后に乗り移り、神託を述べている。

 「西の方に国がある。そこには金銀をはじめとして、目の輝くような種々の珍宝が多くある。私が今から、その国を帰服させよう」(古事記は國としているが、書紀は新羅國としている。)
 しかし天皇は、「高い所に登って西の方を見ても、国は見えず、ただ大海があるだけだ」といい、偽をなす神だと思って、琴を押しやって弾こうとせず、黙って座っていた。

 すると、その神は大いに怒っていった。
 「およそこの天下は、おまえが治める国ではない。おまえは一道(ひとみち)(人が向かう道、死の国)に向かえ」と告げた。

 そこで建内宿禰の大臣は、「畏れながら、我が天皇(スメラミコト)よ。やはりその大御琴(オオミコト)をお弾きあそばせ」と申し上げ、そろそろとその琴を引き寄せると、天皇はしぶしぶと琴を弾いた。

 すると、間もなく琴の音が聞こえなくなったので、火を灯して見ると、すでに天皇は崩御(ホウギョ)されていた。

筑紫の訶志比宮 (一)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、回天編(15)

話は戻るが、熊鰐(ワニ)氏は、「日本書紀」にみえる豪族で、筑紫の岡県主の祖という。
仲哀天皇を周防の沙麼に出迎え、魚と塩をとる地域を献上、海路を案内したと書かれている。
 このワニについては、以前「因幡の白ウサギ」の逸話で、阿曇一族の事であるという説を紹介した。

ウサギは白いから朝鮮系の民族、宇佐氏、ワニは黒くて南方系の民族。阿曇氏と熊鰐(ワニ)氏はどちらも海洋族であり同族ではなかったかと私は考えている。
この和邇(ワニ)氏という古代有力豪族は、和爾、和珥、丸、丸邇などとも表記されているが本拠地は、天理市和爾町・櫟本町付近とされる。

阿曇族の一部が和邇(ワニ)氏となり、五世紀から六世紀にかけて近畿地方に移り住んだと思われる。
この場所に有名な石上神宮(イソノカミジングウ)がある。
『日本書紀』に記された「神宮」は伊勢神宮と石上神宮だけであり、その記述によれば日本最古設立の神宮となる。
百済の七支刀がここにあるが、阿曇のイソラとの関係を想像する。

 この小説ではこれらの説を元に考察した。
イソラは紀伊国からタラシナカツ彦王子と共に北九州に戻り、豊前で待ち構えていたスクネと共に、穴門の豊浦に行宮を置き、その後敦賀のタラシ姫を呼び寄せた。
この地で即位したことになると考え、タラシナカツ彦王子を今後は仲哀天皇と呼び、タラシ姫を神功皇后と呼ぶことにする。

 日本書紀によると、「別の船に乗り、洞海に入り・・・」と書かれており、神功皇后は単なる正妃としての立場ではなく、氏族の連合体の長の様な書き方であることが以前から気になっていた。
仲哀天皇の存在感が低いのである。
 本当に正妃として関係があったのだろうかと感じた。

当時、仲哀天皇は三十代後半の晩年であり、神功皇后は十八歳だったろう。
男女の契りが実際にはなかったのかもしれないと想像した。

仲哀天皇は天皇家の血筋としては確かであるが、政治的実権は持たなかったのではないか。それに対して神功皇后の背後には、葛城氏と息長氏がおり、新羅の王子、天之日矛(アメノヒホコ)の血筋の姫である。
そして、阿曇のスクネと奴国のイソラがいた。

筑紫の訶志比宮(カシヒノミヤ)、橿日という名は橿原を連想させ、神功皇后の政権が新たに名付けた地名と思っている。
橿原が奈良盆地全体に進出する足がかりの地であったように、神功皇后の政権が半島に進出する拠点となるべくして置かれた地に思える。

日本書紀によると、仲哀天皇二年の三月に紀伊國の德勒津宮で熊襲叛くの報に接し、そのまま、海路で穴門に向かった緊急性と比べれば、それ以降の行動は如何にも緩慢であり、筑紫への巡幸とすら表現され、六年を経て熊襲征伐をやっと群臣に議ったとある。

熊襲征伐に大功あるヤマトタケルの第二子、足仲彦天皇(仲哀天皇)の威光というものはまるで感じられない。
それどころか、神々の支持すら得られていない危うい状況となる。

何故なのか?
そして、いざ会議を進めようとすると、皇后が神懸かりとなった。
そして、仲哀天皇は亡くなる。

これらのことを総合して考えていくと、仲哀天皇までの三輪王朝と、応神天皇の河内王朝とは皇統の断絶があるという恐ろしい結論になった。
この観点から以後の小説を展開していきたいと思う。

≪ブログ≫

久しぶりに、個人的なことを・・・。

自己満足的な歴史ものを書いていると、興味のない方はどうでもよくて、面白くなくて、コメントで突っ込むところもないし、炎上することもない?

だんだんと読者が減っていく。

別に「読者を意識する必要はないし、書きたいから書いている」のですが、多少はさびしいような・・・。

人って、誰からか見られていると意識することで、生きていける・・・ということがよくわかります。
だからここまでブログを続けてこられたのでしょう。

ということで、不定期ですが、時々この歴史小説の合間に、「きづき」の記事を挿入しようかな、なんて思いました。

穴門豊浦宮 (二)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、回天編(14)

日本書紀に記載された内容は、北九州地域の氏族たちが天皇に従ったという経緯とエピソードである。この時に実際に活躍したのは、奴国の王子、スクネであったろうと想像している。
日本書紀の記載は次のように続く。

海路の案内をして、山鹿岬(ヤマカノサキ)からめぐって岡浦(オカノウラ)に入った。
しかし入口に行くと船が進まなくなった。
熊鰐に尋ねられ、「熊鰐は清らかな心があってやって来ているのに、なぜ船が進まないのだろう」といわれた。
熊鰐は、「船が進まないのは私の罪ではありません。この浦の口に男女の二神がいます。男神を大倉主(オオクラヌシ)、女神を菟夫羅媛(ツブラヒメ)といいます。きっとこの神の御心(ミココロ)によるのでしょう」といった。

天皇はお祈りをされ、舵取(カジトリ)の倭国の菟田(ウダ)の人、伊賀彦を祝(ハフリ)として祭らされた。すると船は動いた。

皇后は別の船に乗っておられ、洞海(クキノウミ)よりおはいりになったが、潮がひいて動くことができなかった。
熊鰐はまた返って洞海から皇后をお迎えしようとした。
しかし船の動かないのを見て恐れかしこまり、急いで魚池・鳥池をつくって、魚や鳥を集めた。皇后はこの魚や鳥をご覧になって、怒りの心もやっと解けた。
潮が満ちて岡津に泊まられた。

≪この記載の内容は、そのまま読んでも何を言いたいのか良くわからない。
能鰐一族が支配地域を献上して恭順したが、土地の水神あるいは海神は承知していなかった。つまり、一族内でもすべての氏族が恭順したわけではなかったということである。
神功皇后が洞海を航行することを、地元の氏族は快く思ってはいない。皇后は皇后でそういう氏族に腹を立てている。
そして、舵取(カジトリ)という身分と地位を保証することによって恭順したというエピソードだろう。貢物として魚や鳥を献上したということか。≫



また筑紫の伊都県主(イトノアガタヌシ)の先祖、五十迹手(イトテ)が天皇がおいでになるのを聞いて、大きな賢木を根こぎにして、船の舳艫(トモヘ)に立て、上枝には八尺瓊(やさかに)をかけ、中枝には白銅鏡をかけ、下枝には十握剣をかけ、穴門の引島(ヒコシマ彦島)にお迎えした。

≪宗像地域の豪族、岡県主の次に、筑紫の伊都県主も恭順の意を示したという内容である。≫

そして申し上げるには、「手前がこの物を奉りますわけは、天皇が八尺瓊の勾まがっているように、お上手に天下をお治め頂きますよう、また白銅鏡(マスミノカガミ)のように、あきらかに山川や海原をご覧頂き、十握剣をひっさげて、天下を平定して頂きたいからであります」といった。

天皇は五十迹手をほめられて、「伊蘇志イソシ」とおっしゃった。時の人は五十迹手の本国を名づけて伊蘇国(イソノクニ)といった。いま伊都(イト)というのはなまったものである。

二十一日、儺県(ナガアガタ=奴国)におつきになり、橿日宮(カシヒノミヤ香椎宮)に居られた。

以上、ここまでの日本書紀の記載を読めば、タラシナカツ彦王子(仲哀天皇)とタラシ姫(神功皇后)が北部九州にどのように基盤を築いていったかが想像できる。
熊鰐(ワニ)と五十迹手(イトテ)が恭順することで、政権の基盤が確立した。

 その後、スクネの故郷、奴国の本拠地である橿日宮に入った。古事記には、筑紫の訶志比宮(ツクシノカシヒノミヤ)と書かれている。
朝鮮半島への進出と熊襲に対する牽制を見越して、穴門から筑紫に拠点を移したのだろう。

穴門豊浦宮 (一)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、回天編(13)

タラシナカツ彦王子は、イソラの大船に乗り、瀬戸内を経由して豊前国に入り、そこでスクネの出迎えを受けた。その後、スクネもその地から大船に乗り込み、共に穴門の豊浦宮に入港した。

以下、日本書紀(巻第八)の記述。この部分はそのまま紹介する。

三月十五日、天皇は南海道を巡幸された。
そのとき皇后と百寮を留めおかれて、駕に従ったのは二~三人の卿と、官人数百人とで紀伊国においでになり、徳勒津宮に居られた。このとき熊襲が叛いて貢をたてまつらなかった。
天皇はそこで熊襲を討とうとして、徳勒津(トコロツ)をたって、船で穴門(山口県)においでになった。

その日使いを敦賀に遣わされて、皇后に勅(ミコトノリ)して、「すぐそこの港から出発して穴門で出会おう」といわれた。
夏六月十日、天皇は豊浦津(山口県豊浦)に泊まられた。
皇后は敦賀から出発して、渟田門(ヌタノミナト福井県)に至り、船上で食事をされた。そのとき鯛がたくさん船のそばに集まった。皇后が鯛に酒を注がれると、鯛は酒に酔って浮んだ。漁人はたくさんその魚を得て、よろこんでいった。「聖王(神功皇后)のくださった魚だ」と。
そこの魚は六月になると、いつも浮き上がって口をパクパクさせて酔ったようになる。
それはこれがもとである。

≪このエピソードは何を言いたいのか? 神功皇后は海神の子であることを暗示したかったのか? そして海神から如意の珠を授かる。≫

秋七月五日、皇后は豊浦津に泊まられた。この日皇后は如意の珠(すべての願いがかなうという珠、満珠、干珠)を海から拾われた。

九月、宮室を穴門にたてて住まわれた。これを穴門豊浦宮という。

≪この後の五年ほど、なぜか記述はない。実際は豊浦宮に来てから北部九州を支配下に置くまでの期間だったのかもしれない。
私の想像であるが、逆に南海道での雌伏の期間が五年ほどあり、つじつまが合わなくなるので五年、天皇になった時期を早めたのかもしれないと考えている。

 古事記にも日本書紀にも、穴門豊浦宮の記述があるが、その場所は「穴門」である。
 近畿ヤマト政権とは、どう考えても連続性がない。この事実だけでも革命政権であることが推測される。
この後、北九州地域の氏族たちが天皇に従ったという経緯とエピソードが語られる。≫


八年春一月四日、筑紫においでになった。
岡県主(オカノアガタヌシ)の先祖の熊鰐(ワニ)が、天皇がお越しになったことをきいて、大きな賢木(サカキ)を根こぎにして、大きな船の舳へに立てて、上枝に白銅鏡(マスミノカガミ)をかけ、中枝には十握剣(トツカノツルギ)をかけ、下枝には八尺瓊(ヤサカニ)をかけて、周芳の沙麼(山口県佐波)の浦にお迎えした。御料の魚や塩をとる区域を献上した。

≪この地域の豪族である熊鰐(ワニ)一族が支配地域を献上したということか?≫

申し上げて、「穴門より向津野大済(ムカツノノオオワタリ=大分県宇佐郡向野)に至るまでを東門ととし、名籠屋大済(ナゴヤノオオワタリ=福岡県戸畑の名籠屋崎)を西門ととし、没利島(モトリシマ六連島)・阿閉島(アヘノシマ藍島)を限って御筥(ミハコ=三種の神器の一つである神璽(八尺瓊勾玉を納めておく箱)とし、柴島を割いて扁瓦(ナベ)とする。逆見の海を塩地(シオノトコロ=塩をとるところ)としたい」といった。

豊国 (二)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、回天編(12)

スクネが訪れた頃の豊前国の王は、宇佐氏であったろうか、それとも大神氏(オオガシ)だったのだろうか、ヤマトの三輪を本拠地とする大神氏が豊前国に来たのか、もともと豊前国にいた大神氏の一部がヤマトに移住したのか、このあたりは想像の域を出ない。

始祖と言われる大物主大神は蛇紳と言われ、出雲と関係もある古い氏族である。
大神神社(オオミワジンジャ)は日本で最古の神社の1つとされる。
三輪山そのものを御神体としており、本殿をもたず、拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。
自然を崇拝するアニミズムの特色が認められるため、三輪山信仰は縄文か弥生にまで遡ると想像されている。
小説に戻る。

スクネが会った豊国王は、ヤマト王権とのつながりも深く、成務帝とタラシナカツ彦王子のイザコザのこともすでに知っていた。
瀬戸内海を通していろいろな噂話が流れて来ていた。

豊国王は、邪馬台国連合のトヨの一族であり、三輪王権との繋がりが強く、景行帝の正妃の孫であるタラシナカツ彦王子に対しては、成務帝よりは好意を持っていた。
 スクネに、一件の経緯を聞き、スクネの提案に賛成した。

「筑紫国王の水沼君が言うのであれば、豊国としてタラシナカツ彦王子が皇位につくことに同意する。倭国として強力な軍備を整備することは、現在の朝鮮半島情勢を考えれば当然であり、現在のヤマト政権はその危機に対する意識が低すぎる。」
 豊国王は、こう述べた。
スクネは自分が成務帝のもとで取り組んでいた大改革がとん挫した経緯も正直に述べ、タラシ姫という巫女との出会いについても述べた。
 海神の子であるという話と、自分の危機を救ってくれたという話を詳しく話した。

「なんと、アマテラスの生まれかわりと申すか。」
元々、シャーマニズムの盛んな場所であり、豊国王は霊的な能力に対する知識も深い。
スクネの話を聞いたとき、感じることがあった。

 タラシナカツ彦王子については、以前からあまりいい評判は聞かなかったが、わずか十五歳の姫が自ら「皇后になる」と宣言して、奴国の王子であるスクネをこれだけ動かしている。成務帝に気に入られ大臣となった若者であり、実際に会って話すと、そのさわやかさと誠実さを感じる。

このスクネ王子がそこまで言うのなら、この話は本物だろうと感じた。
日向県主と関係が深い阿曇一族もかかわっているのであれば、一大勢力となるのは間違いないはずである。
このような政治的な打算もある。

スクネはこうして、タラシナカツ彦王子を九州に迎える準備を整えた。
豊国王との話し合いにより、場所は九州とヤマトの交通の要衝である「穴門の豊浦宮」(関門海峡)が良かろうということになった。
こうして倭国に「三輪王朝」と「筑紫・豊国王朝」の二つが並立するということになる。

★「古事記による」
タラシナカツヒコ天皇(仲哀天皇)は、穴門の豊浦宮、また筑紫の訶志比宮において天下を治めた。・・・中略・・・

★「日本書紀 仲哀天皇紀による」
(仲哀天皇)治世二年夏6月10日、天皇は豊浦津に泊まった。皇后(神功皇后)はツヌガを出発して、ヌタの港に至ったところで船上で食事をしたが、そのとき鯛が沢山船のそばに集まってきた。それを見た皇后が、鯛に酒をそそぐと、鯛は酒によって浮かんできた。そのとき漁師たちは沢山その魚を捕まえて喜び言った・・・中略・・・
治世二年秋7月5日、皇后が豊浦津に泊まり如意の珠を海から拾った。・・・中略・・・
9月、宮を穴門に建てて住んだ。これを穴門豊浦宮という。